焦げかけのトーストをかじるという表現が示す絶妙な距離感

最近abemaTVでママレード・ボーイが放送されている。
懐かしくてガッツリ見ている。*1


オープニングの音楽がいい。


『笑顔に会いたい』


ぜひ会ってください。
そう言わずにはいられないこのタイトル。

昨日ググって初めて知った。
曲自体はわりと聞いていたようで、かなり印象に残ってたのだが。




アタシが昨日初めてそのタイトルを知ったこの曲、
歌詞の中で特に印象に残っているフレーズがある。

焦げかけのトーストかじったら
なぜか不意に胸がときめいた
甘くて苦いママレード


このフレーズこそが、この文章の主題だ。



「焦げかけのトーストかじったら なぜか不意に胸がときめいた」


何でだ。


焦げかけのトースト。


もはやそれは積極的に食べようと思う対象ではなくなったのだろう。
たしかに焦げかけのトーストはまあまあ苦い。


だが捨てるのももったいない。真っ黒焦げではないのだから。


しゃーない食べよう。


そんなところだ。





ではどうやって食べようか。
そのままではちょっとアレだ。なんせ焦げかけているのだ。

もしも、ちょっと高級な食パンがいい感じに焼けていたのなら、そのまま食べても十分においしいだろう。
ジャムやバターさえも不要かもしれない。



しかし、このパンは焦げかけている。なにかの助力なしで食べるのは厳しい。
そう判断したのだろう。

焦げかけのトーストに力を貸してくれそうな選択肢といえば

  • 何か塗る
  • 何かのせる

塗るならジャムやバター、のせるなら目玉焼きやとろけるチーズなどがある。
だがここで選ばれたのが他でもないママレードだった。一般的には「マーマレード」だった。




これは絶妙なチョイスといわざるを得ない。
それはなぜか。




ママレードはジャムの中では珍しく苦みがある。

苦みがあるママレードを焦げかけのトーストに塗ることで、
実際にはトーストの焦げに由来する苦みを、
ママレード由来の苦みだと錯覚させることができる(かもしれない)のだ。


つまり、ママレードを塗られた焦げかけのトーストは、
ママレードが塗られたいい感じに焼けたトーストに匹敵するポジションを得られるかもしれないのだ。




・・・




だが残念ながら、その思惑は外れてしまったらしい。

焦げかけのトーストは、たとえママレードを身にまとったとしても、
決していい感じに焼けたトーストと同等の地位を得ることを許されなかったのだ。


『かじった』


この表現がその残酷な結末を示している。
そう、焦げかけのトーストは「かじられた」のだ。決して「食べられた」のではなかった。

「かじる」という絶妙な表現によって、焦げかけのトーストに対する捕食者の心理的距離感が示されている。

苦みのあるジャムであるママレードをもってしても、焦げかけのトーストは「食べる」対象とはなりえなかった。


  1. 好んで
  2. 普通に
  3. いやいやながら


ものを食べるという行為にこの3つの水準があるとしたら
おそらくは2と3の間あたりに位置するであろう、「かじる」。

それがママレードを塗った焦げかけのトーストへの評価だった。

だが捨てるのももったいない。真っ黒焦げではないのだから。

しゃーない食べよう。

ママレードを塗った焦げかけのトーストは、
結局この距離感を埋めることはできなかったのだ。



焦げかけのトーストには本当にママレードが塗られていたのか?


だがここで我々は、ある恐るべき可能性に気づいてしまう。
それは、実は焦げかけのトーストにママレードは塗られていなかったのではないか、という可能性である。

焦げかけのトーストかじったら
なぜか不意に胸がときめいた
甘くて苦いママレード

この歌詞の記述を正確に解釈しよう。

  • 焦げかけのトーストをかじる
  • (焦げかけのトーストをかじったら)なぜか不意に胸がときめいた
  • ママレードは甘くて苦い

「かじったら」という文言によって、
「焦げかけのトーストをかじること」と「胸がときめいたこと」の間には因果関係が示唆されている。



しかし、そのトーストにママレードが塗られていたとは断定できない。
ここではあくまでも、ママレードが甘くて苦いという事実(あるいは感想)を述べているにすぎないのだ。
したがって、焦げかけのトーストにはママレードが塗られていなかった可能性が残されている。



かじられた焦げかけのトーストとは全く無関係の存在として、
ママレードの甘さと苦みに言及されている。



その可能性に気付いた我々に、もはやなす術などなかった。

塗っている。もはや祈るしかない。塗っているのだ。
ママレードを焦げかけのトーストに塗っているのだ。

たとえその先に待っているのが「焦げかけていることに変わりはない」という評価だとしても
たとえその先に待っているのが「かじる対象」以上の存在にはなれなかったという真実だとしても、
焦げかけのトーストにはママレードが塗られているのだ。




ああ、何ということだ。



我々は祈ることしかできない。



この哀れな焦げかけのトーストに
この哀れにもかじる対象としてしか認識されないトーストに
ママレードはきっと塗られている



そう祈ることしかできない。

そう祈ることによってしか、この焦げかけのトーストに希望は見出せない。



たとえその先に待っているのが、
ママレードを塗る前とまったく同じ価値しか与えられないという現実だとしても。





だが、この哀れとも言うべき焦げかけのトーストは、確かに輝いていた。

食べた本人の胸がときめいたのだから。


それも食べた本人は予期していなかったのだろう。
まさか焦げかけのトースト風情に胸をときめかせられるとは思ってもみなかったのであろう。



まったくもって不意をつかれている。



トーストをかじったのは誰だ


では、この焦げかけのトーストをかじったのは誰なのか。



この曲の歌詞に何度も出てくる「ママレード」という言葉は、アニメ(そして原作)のタイトルに含まれている。

しかもママレードという表現が「マーマレード」という一般的な言い方とは異なる、いわば特別な表現である以上、
その表現を何度も繰り返すこの歌詞がアニメとの関連を意識して作られたことは、ほぼ間違いないだろう。



そして、焦げかけのトーストをかじった本人は、

  • 歌詞の序盤でリボンをつけており、
  • 制服を所持し、
  • 「すこしずつ大人になるのかな」という内言を発している

というところから、おそらく女子中高生ではないかと推察される。



この物語に出てくる女子中高生とは、まさに主人公とその友人たちだ。

したがって、この中の誰かの内面がこの歌詞の中で記述されていると予想できる。


あえて主人公以外の視点から描く特別な理由もみつからないため、
おそらくは主人公のことを指しているのだろう。




つまり、焦げかけのトーストをかじったのはこのアニメの主人公だったのだ。




アニメ『ママレード・ボーイ

90年代半ばに、このアニメはセーラームーンの「卒業生」を主なターゲットとして作られた*2らしい。

放送当時にかなりの人気を博した実績をもつこのアニメの主人公は
おそらく数多くの女子生徒たちの憧れであっただろう。



その憧れの存在であるアニメの主人公の胸がときめいたのだ。







勝利。

これ以上の勝利があるだろうか。






焦げかけのトーストは、
このアニメの主人公から自身に下された「かじる」という微妙な評価とは対照的に
その主人公の胸をときめかせるという偉業を成し遂げていたのだ。







この事実に気付いた我々に、待望の希望の光が差した。


ああ、なんということだ。


祈ることでしか救われないと思われたこの焦げかけのトーストは、
実際は自らの力で希望を見出していた。


焦げかけている。
かじられる。
しかし胸をときめかせる。



焦げかけのトーストは、現実世界でも毎日無数に生産されているだろう。

だがそこには希望がある。
胸がときめく希望があるのだ。




ああ、なんということだ。